2011年4月14日木曜日

共存と分離の端境期

今日は前回の文化の統合に関連したお話。
今、大学にいるが、キャンパスの図書館でもついに顔全部を覆うニカブを被っている二人の女性を見た。真っ黒ではないが、こげ茶系のスカーフだった。色々な異文化に触れて、それなりに理解しているつもりの私でもさすがに英国の大学の図書館で見たニカブにはかなり違和感を覚えた。大学とは自由と開放の場と思っていたのだが、自由というのが異なって適用されているのがなんともなく不思議である。

去年、英国の街では顔を隠す「ニカブ」を被っている女性が増えていることを書いた。パレスチナの友人によると、この傾向は宗教とか男性や社会からの抑圧というより、女性の自己認識に立った個人的な理由がほとんどだそうだ。

英国ではマルチカルチャー推進という名目の下、異なる文化の人たちへの公共の場所の待遇がかなり寛容である。政治家がニカブやブルカを批判するものならメディアなどから大変な批判を受けるので、政治的に敏感なトピックでもある。これはニカブを全面禁止したフランスとは対照的である。

寛容なのはイスラム教徒に対してだけでない。
例えば、シーク教徒の男性はターバンを被っているが、彼らからの「伝統を尊重する」という強い要望で英国ではバイクに乗るときにシーク教徒は例外的にヘルメットの着用が免除されているそうだ。これをきっかけに伝統や文化を理由に、様々な公共の施設で変化が出ている。例えば、公営プールでは男性と女性の水泳時間が分けられる、イスラム女性は水着でなく、肌を出さないスェットスーツやレギンスなどを着て泳ぐ、プールのガラス張りの窓は外から見えないようにブラインドで覆うようになったので中が暗くなる、などなど。ここまで来るともうやりすぎ、という感じ。

この世には男性と女性が半分ずついるのに、そこまでして男性と距離を置く理由とはいったい何なのだろう?
一方で、図書館でニカブを被っていた女性は同じ出身地域と思われる男性と仲良くカップルのようにいちゃいちゃと歓談していた。もし公共な場では女性は男性と距離を置かなければならないのなら、これは到底、ありえない光景である。あるいは逆説的にニカブがあるから男性と接触できるというも理屈があるかもしれない。

異文化の尊重ということは理解できるのだが、それでは英国の文化というのはどういう風に捉えられているのだろう?英国人からすると、何故自分たちの側が全面的に変えなければなければならないのか、という不満が出ているそうだが、それも理解できる。

西洋人や日本人がイスラム教国に行くとその国の文化に厳格に合わせる。外国人女性はベールを被る、身体の線は見せない、外国人男性は女性との接触をできるだけ避ける、などなど。私たちの文化はそこで自動的に抹消される。逆に厳格な文化の人たちが欧米に来ると、自分たちの文化や習慣を守るため現地の文化を受け入れることは少ない。でもこうやって個々人がばらばらの価値観をもち、お互い干渉せず生きていくことが続けば、社会とてしての統一や一体感がなくなるんじゃないだろうか?ある程度の妥協点を持つ必要はあるのではないか?

社会規範に対して、寛容な文化と厳格な文化がある。
寛容な文化は厳格な文化に物差しを合わせなければならないのだろうか?もし個人の自由の尊重という国連の人権憲章が恒久的なものなら、寛容な文化の人たちの自由というのはどういう風に保障されるのだろう?

英国やフランスの経験は、多分、10年後、20年後の日本にも降りかかる問題であるような気がする。

ということを色々思いめぐらしていたら、頭が変になりそうになった。

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